スティーブ ハリソンの〈The Age of the Beaker〉について - ベネディクト ハリソン
手前に向かって傾く質素なビーカーが挑戦的に問いかけてくるようです。その中に入っているのは、シンプルな食材からできている食べ物や丁寧に調理された料理に加えて、私たちの住む世界の理想へ向かう探求。ビーカーは私たちを広範におよぶ収集、そして、本質的に人間の存在条件と結びついている、生産に直結した質素さの在り様の探索へと誘います。「非日常的なものを求める時、必ずしも日常を抜け出す必要はない」ビーカーを使って食されるものは、そう思索する時間を与えてくれるのです。
けれども、人生をいかに生きるべきかを伝えることは、ビーカーが意図するところではありません。これらの陶器たちは、少年が手のひらをカップのようにして水を飲む姿を見て、一つのボウルですら過分だとみなしたシノペのディオゲネスによる、キニク学派の思想を永続させるものでもありません。スティーブにとっては、発想のはじまりから実制作まで、ビーカーのあらゆる側面が自己目的的なものであり、結末を念頭に置かない自己完結型の探究なのです。
何かをすること自体が目的であるというこの発想は、ビーカーの普遍的な実用性に関する、より深い探求を触発するものとして、映画監督のジャック マクゴールドリックとの仕事を特徴づけるものとなりました。パンデミックの直前、ジャックはスティーブのワークショップにてスティーブとナイジェル スレイター(食に関わる評論家/今回のプロジェクトにはレシピの考案者として参加)の会話を撮影しています。
ナイジェルはスティーブの作品はよく知っていたものの、撮影が始まる前まで、個人的に彼を知っていたわけではありませんでした。ふたりは先入観を持たずにこのプロジェクトに臨み、特定のゴールを決めずに何かを生み出すこと、会話が生み出す魔法のような効果を捉えることの2つを約束事としました。スティーブとナイジェルにとっては、この撮影の価値は出来上がったものの中に見いだされるものではなく、プロセスの各段階において本質的に存在するものだったのです。
ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで始まり、毎年恒例のクリスマスポットセール(1995〜2014)―そこではビーカーでホットワインが振る舞われ、参加者はそのビーカーを持ち帰ることができた―まで続いた会話の映像を見返す中で、スティーブは自身がビーカーの歴史と自分自身について話す姿に感銘すら覚えました。
彼の仕事ぶりにパンデミックの襲来による影響はほとんどなく、むしろその日々はビーカーへの執拗な探究に充てられることになりました。外界からの干渉が少ないこと、そして、午前10時に一杯のコーヒーを飲むこと、一日を通しての思考と制作の合間にお茶を飲むといった習慣を続けることで、スティーブは慣れ親しんだルーティーンを維持しながら、この探究の始まりに充実した仕事をすることができました。
ビーカーの形をスティーブが探求する過程で、その姿形は古典的なものから進化していきました。それは数年前のクリスマスポットセールの時に用いられたビーカーよりも幅が広くて深く、もはやボウルに近いものといえます。その技術的な複雑さにも関わらず、それを見て「シンプルだ」と評したスティーブの妻・ジュリアの言葉以上の賛辞はないでしょう。ビーカーの外観のシンプルさは、技術に裏打ちされたものであるだけではなく、ビーカーの起源とその普遍的な特徴に忠実なものでもあるのです。
「人工物に心はない」とスティーブはよく口にします。その真意は彼にしかわからないものですが、しかしビーカーの質素な外観とそれが実現できることの間には、深く共鳴するものがあるでしょう。スティーブのビーカーの底部は、焼成用コーンに載せておくことで焼成中に全体が押し下げられるという方法で作られます。そして型によってサポートされている花型の刻印が瞬時に押し込まれることで、内側と外側の両方に鮮明なイメージを作ることができるのです。
ビーカーに大鍋のような印象を持たれるのを嫌うスティーブは、三つの花が底部の支えとなることには消極的でした。しかし、親しい友人であるトニー シムズからの一本の電話が、それを解決することになったのです。トニーは、ビーカーの底部の一部をサポートとして使うよう提案したのですが、偶発的に決まった花の位置とそれによって生じたビーカーの傾きが、スティーブに驚くべき結果をもたらしたのです。
ビーカー制作は常に形の探究であり、多様な形と細部の姿が、いつも異なる問いかけをします。ビーカーには何も加えられていません。それぞれが一塊の粘土から作られ、派手さや分かりやすさとも無縁です。シンプルな食事を楽しめさえすれば、ビーカーの形そのもので全く充分なのです。
Travelling with Teaを含む過去の探求と同じく、スティーブのビーカー探求は、それらを日常生活と結びつけることなしには完成することはありません。ビーカーの楽しみは、使うことでこそ生まれ、ビーカーはその姿形を大仰に見せるということもなく、それを手にする人と親密な時を紡ぐのです。
私たちは自身が知っている文脈に合わせて物事を理解しようとして、ビーカーを目の前にした時にも、その艶やかな姿を引き立てるのにふさわしい食べ物はなんだろうかと、考えを巡らせるかもしれません。ナイジェルは、人々がビーカーの外見と共鳴することだけではなく、ビーカーを使って口にする食べ物についてもよく考えを巡らせることができるよう、レシピを考案する時に倫理的な観点も取り入れました。
料理とビーカーが素晴らしく調和したのは、ひとえにこの旅の全てを共有したスティーブとナイジェルによるものです。慣れ親しんだ場所から進んで出ていく彼らの意欲と、自身の専門分野にとらわれない姿勢により、この探究の成果が生まれたのです。
この旅の終わりは、様々な解釈に開かれた新たな旅の始まりとなりました。新たな体験の探求は、私たちに新たな所有欲をもたらしがちですが、同じビーカーと同じレシピでさえも、様々な発想を生み出すものとしてあり続けるのです。さあ今こそ思考の旅に出かける時です!
- ベネディクト ハリソン